大学院0年生 万年筆にハマる
お久しぶりです。
最近、というか大学四年生になってから万年筆にハマっていました。
備忘録のような、おすすめのような、そんな記事として今回は書いていきます。
あ、写真は面倒なのでスマホカメラ経由の色は結構肉眼で見るのと違うので載せないことにしました。
なぜ万年筆なのか?
そもそも、なぜ万年筆にハマったのかの経緯について書いていきます。
僕はもともとは筆圧が高かったのですが、怪我をしてから年々、筆圧が下がっていました。
鉛筆だった筆記用具はシャーペンになり、シャーペンの芯が4Bになり、ジェットストリームのボールペン(インクフローが非常に良い)を経て、最終的にゲルインキボールペンまで来ます。
それでも、数学の答案を大量に作成したり、英語の文章を何度も書き取ったりしていると手が非常に疲れてきます。
大学に入ると、これに数学の教科書や物理の教科書の内容を書写して論理ごと頭に入れたり、教科書の式と式の間の変形を自分で追うためにノートに大量に書き込んでいく作業が加わりました。
はっきり言ってすごく疲れます。
手がつかれるから勉強したいけどしない、もしくは勉強するにしても暗算にとどめて書かないということをやっていました。
これは大きなミスで、過去記事でも言ってますが、まったくと言っていいほど身に付きません。これは個人差もあるとは思うので何ともですが、書くことで覚えるタイプの人間は、書くことをやめてはいけません。
どうしたものかと思っていた時にたどり着いたのが万年筆でした。
万年筆は、ボールペン以上に筆圧がいらず、すらすらと書き続けることができます。
加えて、数学や物理に特有の記号(特殊記号やギリシャ文字の類)、ベクトルや行列に用いる()の一つ一つに至るまで、気合を入れれば結構キレイにかけます。
僕は字が汚いのであまり気合を入れて書くことはしませんが、ちょっとした暇つぶしを紙面上で完結させられるので「飽きたからTwitter~w」みたいな事が減ります。講義で使いたかった。
SARASAをはじめとするゲルインキボールペンを超えるサラサラ筆記感のおかげで、久しぶりに勉強に身が入るようになりました。
詳細な使い方
僕個人の万年筆の使い方について述べていきます。
まず、僕はノートに色を使ったりしないタイプでした。一回書いたらそれで終わりで、見直したところで教科書の整理には勝てないのだから、
- もう一度書く
- 教科書を読む
- 関連する演習問題で理解していない部分を洗いなおす
この三つ以外やることはありません。ゆえに色を使って彩るのは意味がないと考えていました。これに関しては今もそう思っています。
ただし、万年筆の場合は少し事情が変わります。
ボールペンや、鉛筆と異なり、「お気に入りの一本」に様々な色を入れることができます。
さらに、例えば”青”一つとっても万年筆のインクには様々な種類の”青”が存在します。
ペリカン エーデルシュタイン アクアマリン
暗くて黒の中に青があるような色から、青空のような、宝石のような目が覚める青色まで、さまざまな”青インク”が存在します。
一本、ないし何本かのお気に入りの万年筆にお気に入りの色を入れてガリガリと勉強していくって、そのページが終わって俯瞰すると
”自分の好きな色でできたページ”が完成します。少しですが、勉強の楽しみと同時にインクを消費する喜びを得ることができます。
僕が使っているペンとインクの組み合わせを下に乗せていきます
Waterman メトロポリタン (ボディの細いスチールペン。インクがよく出る)
エーデルシュタイン aventurine(緑系 アベンチュリンの宝石をイメージした色)
Pilot コクーン(kakuno シリーズと同じペン先 非常に細くカリカリとした書き味)
色彩雫 天色 (まさしく空の色といった色)
Parker デュオフォールド インターナショナル(高級ペン 金ペンだが少し硬い。)
エーデルシュタイン Star Ruby(買ったところで入れてもらった。変更予定)
このペンで飽きたから次はこいつでーとか、次はこのペンに何色入れよー
とか、分野変えるから次は何色~とかやってると、なかなか楽しくなってきます。
ちなみにノートも少しこだわって
マルマンのニーモシネというノートにしています。
分野が理論物理学なので、ただひたすら書きまくって、成果なり自分の結果、まとめておきたい計算結果を切り離してファイリングする用途に良いです。
もともとはツバメノート派だったのですが、狭い場所(バイト先のコンビニのバックヤード)や、狭い机で見開きで開けない場合も多く、リングノートにしたということと、水彩インクは非常にしみこみやすく、適当すぎる紙だとにじんでしまう場合もあるので気を付けています。
ちなみにただの計算ならコピー用紙で十分なので、気合を入れたりする用途以外はコピー用紙に書いてます。
注意点
万年筆が敬遠される理由としては
- ペン先が細くて怖い
- インクの入れ方がよくわからない(ついてくるの?)
- 手が汚れそう
等だと思うので先にこちらに回答しておきます
ペン先に関しては、書く用途で使っている分にはそこまで気にする必要はありません。というか、そんなめちゃくちゃな筆圧の人はボールペンで不自由ないと思います。
ボールペンが荒い使い方をしてボール部を傷つけると途端に書けなくなったりするのと同じで、常識の範囲内で使っていれば問題ないです。角度が変わると書けなくなるということもそこまでありません。
インクの入れ方は二種類存在します。
使い捨てカートリッジの型、コンバータと呼ばれるインクを吸い込んでボールペンの芯のような機能を果たすスポイトのような仕組みのパーツを使う型の二種類あります。
大体コンバータはついてきますが、初心者用だとない場合があるので、店員さんに聞いて「対応コンバータもください」っていうと対応品を教えてくれます。大体500円程度です。僕のブログでは両用式しか紹介しません
手は汚れます。インクをコンバータ式で使う場合はめちゃくちゃどっぷりとペン先を瓶に浸す必要があるので、慣れていても多少手につきますし、余ったインクをふき取るときにティッシュを貫通して手についたりします(この間高級筆記用具店で試し書きさせていただいた時も店員さんがすこし指を汚していたのでそういうことだと思います)。まぁ家でやる分には洗うので十分でしょう。
筆箱に入れて持ち歩いていても、よほどひどいことをしなければ大丈夫です。
高いところから落とすと、稀に大変なことになります。
おすすめのペンと使い方
僕の使い方はあくまで既に”文具オタク”である僕の使い方なので、突然あんなもの紹介されてもしょうがない気がします。
よって、初心者向け、これから万年筆を使ってみようという学生に向けて僕なりのおすすめを述べていきます。
正直先人たちのブログにも詳しいことは書いてあるのですが、廃盤になっているペンや、高すぎるペン、そして何より全体的に”文筆”っぽい趣味で使っている人が多い気がするので、学生向けというのを意識して書いていこうと思います。
万年筆のほかに、転写用に黒ボールペン、テスト用にシャーペンと消しゴムを持っている場合、黒もきちんと万年筆で書きたい等のこだわりがない場合は、ノート用なりメモ、計算用に使う万年筆には自分の好きな色入れて楽しむのがよいです。
コンバータタイプなら、少し残っていてもパッと捨てて洗って次の色を入れることもできるので、気分で色を変えるといいでしょう。飽きてくると目に見えて書くことが減ります。
おすすめインク
初心者用万年筆をとりあえず使って、書き心地が気に入ればインクを買いましょう。
好きな色、好きな瓶、好きなテーマ、さまざまなアレがありますが、とりあえず
小瓶三つ詰め合わせセットとかもあるのでそちらもおすすめ
ペリカン エーデルシュタインシリーズ (大瓶が2000円程度)
とにかくボトルが美しい&全色キレイなのでおすすめ
モンブラン 60ml瓶 (2000円程度)
瓶がかわいい…かわいくない?
セーラー万年筆 顔料インク (2000円程度)
水彩インク系は水で落ちちゃうから…という人に
あたりを探すと、そのほかのインクボトルもサジェストに出てきて探しやすくなると思います。色も豊富で、色見本を眺めているだけで楽しいです。
ボトルは一回買うと、小瓶でも使い切るのに時間がかかる程度にはたくさんあるので、少し値段が張るように見えて若干お得です。(高い本体を買う場合は…ですが)
海外のブランドのインクは、同じ色でカートリッジタイプのものもあったりするので、少し割高にはなりますが、洗浄の面倒さや、顔料インクによるコンバータの汚染(プラ製のコンバータはたまに強力に染まってしまう場合がある)を考慮してカートリッジを買ってしまうのも手だと思います。
おすすめのペン本体
パイロット カクノ 1000円程度
多分今となってはどこの文房具店に行っても置いてある万年筆のカクノ。
書き味は固めで、初心者でも取り回しがききやすいペンになっています。やわらかい金ペンは最初びっくり上する高いので…
クリアカラーのコンバータ付きにして、好きな色のインクをコンバータで吸い込んで使うのがいいと思います。なんか、テンション上がります(俺だけかな?)
コンバータ付きのタイプがあるのでそれを買うといいでしょう
持ってみることも可能なので、もち心地が気に入れば是非。
ただし、1000円でプラ製なので、稀にキャップの境界部分が破損して締まりにくくなる場合があります。母と僕、友人で発生した問題なのでおそらく……。
パイロット コクーン 3000円程度
カクノと同じペン先を採用した、金属ボディのモデル。
大人が持っていても恥ずかしくない見た目をしており、キャップのはめ込み音が気持ちいい。ペン先が乾くと出なくなる共通の弱点を考えると、このキャップの存在は割と重要です。個人的にはお値段以上の価値があると思います。
下手な高級ボールペンよりプレイアビリティ(?)は高い。が、このお値段を筆記具にかけるのはちょっと……という方はカクノで我慢しましょう。
プラチナ万年筆 プレジール 1000円未満
見た目、書きやすさ、値段すべてが高水準なエントリーモデル。
かなり細い線になりやすい。金属っぽい見た目のおかげでカクノほど子供っぽくない。
一応コンバータ対応で、いろいろな色を入れることができるのもポイント。
ただし、インクやコンバータを入れる部分(本体とペン先?の接続部分)がめちゃくちゃ緩く、新品でもふたを外すときにとれそうになる。場合がある。安さの代償だろうか。
僕は平気だったが母親のがこの症状になり、店で試し書きしたときも同じ症状だった。
どんなもんかと試してみるのにはちょうどいいが、一生モノというわけにはいかなさそうな一本。
パイロット プレラ 3000円程度
カクノのペン先じゃ満足できなかった場合に選ぶ。
スケルトンカラーでクリップも大人っぽいので変ではない。
CFというカリグラフィ用のペン先があるので、線の強弱をつけたい人におすすめ。
僕はパイロットのコンバーターのビーズがダサいので使ってません。
parker ジョッター 定価4000円程度(実売2000円程度)
カクノよりちょっとやわらかい程度の硬さで、インクの出もよく、
細身で美しく、スチール製でポケットに入れていても壊れそうになく、一瞬で分かる人にはわかるブランドマーク。コクーンと並んでコスパは最強クラスだと思われる。
海外ブランドながら、F(細)がちゃんと細いのもポイントが高い
万年筆は全体的に太いモデルが多いので、握った感じが今までのもので気に食わず、2000円くらいなら払ってもいいか…!という人にはお勧めできます。
僕は筆箱をあまり持ち歩かないでジャケットのポケットなどにさしっぱなしにする人間なので、そういう人にもいいかもしれません。
ただ、パーカーのクリップは生地を損傷させる場合がある(あまりにも鋭利なため)ので大切な服とかにはあまりむやみに刺さない方がいいです
Waterman メトロポリタン 定価10000円程度 (実売5000円程度)
沼に落ち始めた人用。
潤沢に出るインクと、スチールの硬いペン先、塗りたくっているような印象を受けるペン。めちゃくちゃ書きやすいですが、細いペンであること、値段の割に金を使っていないので腐食の危険があって一生モノとはいかなさそうな点がネック。
ただ、書きやすさとデザイン、加えてはめ込み式のキャップのフィット感がすごくいいのでお勧めではある。Amazonで激安なら購入の余地あり。
プラチナ #3776 センチュリー 定価10000円程度
沼に落ちた人入門用。
金ペンという金を用いたペン先を持つペンで、10kで買えるのはなかなかお得です。
国産メーカー(うろ覚え)なので細めかつ金ペンにしては硬めで、インクの出が少し渋めに設定されているので書いてる感があります。
普通、万年筆は使っていなさすぎるとインクが乾く等のトラブルが発生するのですが、インクが乾きにくい構造をとっているらしく、一年放置しても問題ないそうです(放置することはないのでわかりません)
金は理論上腐食しないので、一生モノの万年筆になります。
この万年筆は人気なのかネットのほうが高い場合もあるので実売点で買う方がいいと思います。
パイロット カスタム74 10000程度
僕はこのペンに関してはエアプなのであまり述べません。
定番中の定番なのでほかのブログや記事でもよく紹介されています。
僕は微妙なスケルトン感の安っぽさで敬遠してますが、かっこいいモデルもあります。
派手な色が好きなのもありますが、落ち着いた系ならこちらもよいでしょう
10000円クラスのペンになるとさすがに勇気がいるし、もう少し頑張ってより自分好みのペンを買う選択肢もあるので、取り合えずいろんな店に行こう!
Kingdom noteの実売店は結構気軽に試し書きさせてくれるし、伊東屋も万年筆を取り扱っているお店は試させてくれる場合もある(ペンを汚す行為なので対応してくれない場合も当然ある)ので、そこらへんはプロに聞いてください(丸投げ)
おすすめノート
ツバメノート
ペン先への引っ掛かりがなめらかでよい。閉じられたノートなので実験ノートに使えるし、紙質の割に結構安い。ちょっと裏抜けする気がする。
大学生協とかで良く売ってるし、なんか限定ノートとかになってる。
マルマン ニーモシネ
ツバメノートっぽいが、切り離しや日付タイトル入力、サイズ展開、リングノートであること等がツバメノートとの差別化になっている。紙質がめっちゃいい。
裏抜けなく、インクの渇きも割とよい。
ただ高い。1000円くらいする。70枚なので通常ノート二冊分と考えても結構する。
でも好き。気合を入れて勉強するときや、研究に使っている。
LIFE NOBLE NOTE / ノーブルノート
黄色いので目に優しい。裏抜けしないが、割と裏移りする。母のメモ帳がこれだが、割と青系や緑系のインクが見えやすいので良い。
アピカのノート
高級ノートとしてよく並んでるやつ。ボールペンで使ってたやつを今試しに使う。
……なめらかに書けるが、高級さの割に裏移りが起こる。インクを吸いやすすぎて溜まってるっぽい。乾かすのを慎重にやれば問題ない。
書き味はやわらかいのでそれが好みであれば。
まとめ
長々いろいろ書きましたが
ペン沼にハマった
入門はこの辺だから沼においでよ
ということです。書くという行為が楽しくなれば、自ずと勉強も楽しくなると思ってます。大学院入学に向けて足りない内容をこれからの一か月で補っていきたいなと思っている(小並感)。
雑記 気持ちの整理と吐露
ここ数ヶ月、目まぐるしく過ぎて行った。
その中でも大きなイベント、事件が立て続けに起こっていたので精神的にキツかった。
何があったのか、ブログも更新していなかった事だし、校正も特にせずだらだらと書き連ねていこうと思う。
まず、院試が終わった。
正直あんまり勉強ができていなかった、身に入っていなかったので第一志望だった大学院に入れなかったのは当然であった。
そもそも3年生まで興味のあった内容から急に転向してすぐ面白いテーマがわかるかと言われるとそんな訳はなく、ちゃんと分かっていないまま研究室探しをしていた。
そんな状態でモチベも不安定な中勉強に身が入る訳もなく。と言った感じだ。
まぁ言い訳に過ぎないのだけれど。
とりあえず今決まっている研究室の研究内容に合わせて勉強を頑張るしかない。
どうせ、やり始めたら面白いと感じる。
次に、卒業研究に向けての中間発表のようなものが終わった。
僕は新規に研究するのではなく、夏休み前にすでに学習していた内容と、その原論文とを読み合わせて発表することにした。
詳細を書くと身バレが恐ろしいのでやめておくが、量子アルゴリズムについての発表を行った。
発表に向けて、担当教官にみっちりしごかれながらスライドを直し直し直し直し直して、発表練習もして、本番に臨んだ。
まぁ、内容はおかしくない程度に詰めて発表したので恙無く発表は終了した。
これで精神的に疲れていたのだが、これで大きなタスクが終わり、あとは最後にもう少し研究という名目で勉強をすれば卒業である。
その直後、文化祭があった。今回、僕はほとんど何もしていない。
去年は忙殺されながらロボットを作ったりしたが、今回は先ほどのタスクと重なってほとんどサークルに参加する事ができなかった。
僕の事を拾ってくれたサークルなので、最後にもう少し、サークルとしての活動参加がしたかった。まぁ、仕方がない。
大学生らしい事、とまでは行かないが、楽しい大学生活の重要な片翼を成していたので、ここを去ることになるというのは、些か寂しい気分である。
そこで、訃報を聞いた。
僕に今の大学を紹介してくれた先輩が自殺したそうだ。耳を疑った。
最近話してはいなかったが、尊敬していた。
先輩は僕に今の大学を紹介した事を申し訳なく思っていた様だが、まぁ理○大に行っていたら留年してただろうし、学生がおおらかな今の大学でよかったかなと思っている。
先輩が自殺した理由は、聞いていない。想像は付くが。
元々、刹那的な人生を歩む人だった。僕と同じく躁鬱傾向のある人だった。
僕も、そうなってしまうかもしれない。そういうものだ。
仕方のない事だとは思うし、止められたとは全く思わないが、せめて大学院に受かった事くらいは報告したかったものだ。
訃報を受けた瞬間は、そこまでダメージがなかったが、これが後を引いた。
誰に相談する話題でもないが、心の中で反芻していると、意外と堪えた。
どれくらいキツかったかというと、文化祭の打ち上げで、いつもなら酔わない程度の量の飲酒で悪酔いして可愛い後輩の前で論文を食べる(実食)くらいには疲弊していた。
先輩の苦悩は先輩にしか理解できないだろう。
それから解放されるために死を選んだその選択に、せめて僕だけは敬意を払う。
先輩が天国に行けたかはわからないが、数学が学べる環境であれば良いなと思う。
さて、最後は珍しく浮いた話だ。
こういう話題は僕は全くと言って良いほど友人に相談した事がない。
オタクとそう言った話題の間には深い軋轢があるものだ。特に非モテの道化であった僕に、そういう話は似合わないと、全て一人でこなしてきた。
コミュニティの外であれば、これらの問題は解決されたので今まではそうしてきた。
失敗しても、まぁ次程度で軽くトライ&エラーができた。
しかしまぁ同じコミュニティの後輩が可愛い。一回お茶に誘い出せたが、その時の会話がBad Commnunicationだったので一年ほど関係を凍結していたが、やはり好きなものに触っている後輩の横顔に良いなぁと思ってしまった。
キモいなオタク。死んだ方が良いだろう。
これらの事で心を動かされ、感情が渋滞している。
いまいち研究や勉強に身が入っていない。襟を正さなければならない。
進路決定、研究未定
進路が決まりました。
第一死亡ではありませんでしたが、今の研究にほーーーーーんのすこしだけ関連があって面白そうなところになりました。
第一のモチベは死にかけていたので結果的にはハッピーだったかもですね。
ただ卒研内容が未定です。中間発表の準備はしています
が。
どうっすかな
平成の終わり、人生の行き止まり
久しぶりです
もう二年近く更新してなかったんですね。
前回の記事を書いたのがごく最近のことのように感じるパスタです。
今日は雑記です。ツイートするには長いので、ダラダラと愚痴ります。
ひとまず近況報告でしょうか。
あと数時間で令和が始まり、僕の大学生活はもうすぐ終わりを迎えます。
今まで無限にあった、あるいはあるように思わされていた可能性、進路が急速に収束していこうとしています。
結局、僕は大学院に進学することを選択しました。興味が沸き、かつ現実的なテーマの研究が中々見つからず、苦悩していたのですが、どうにかして”やってみたい”と思えるテーマを取り扱う研究室を見つけることが出来ました。
その研究室を抱えている大学院の難易度が高いので必死で今までごまかしごまかしやっていた勉強を詰める作業に入っています。正直受かる気がしませんが、とりあえずやるしかないので不安で吐きそうになりながら勉強中です。
長いようで短かったこの人生、特にこの大学生活。
私はなんとなく好きなことを学び、好きなことをして遊んで、友達を作って、恋人…はできませんでしたが、まぁそれなりに謳歌してのうのうとここまでの3年間過ごしてきました。そして大学院という今までの”学生”とは異質の研究者としての訓練プロトコルとそれに向けての試験を目の前にして、僕はようやく”自分の人生の選択”を迫られていることに気が付きました。
今までの人生での”選択”というのは基本的に人生に幅を持たせるモノ、あるいはそう謳われているものでした。
今回の選択は”収束”です。何かを選ぶことにより、選ばなかった未来を捨てます。
良い中学に行けば、いい大学に行けば、勉強すれば、こういう経験をすれば、将来色々なことが出来る、いい選択肢が持てる。そう言い聞かされてきました。
ぼくは勉強も、運動も、嫌いじゃなかったし、強制されないそれであれば楽しかったので、喜んでそれに興じました。
中学は受験の意味を感じなかったので、好きなことしか勉強せず、何とも言えない中学に行くことになりました。中高一貫で、それなりには楽しかった記憶があります。
今度は高校のセンセに先のようにそそのかされて俗にトップクラスと言われる大学群を受験する羽目になりました。
受験は嫌でしたが、やりたいことが出来るようになる、選べるようになるよと言われて体調を崩し、精神をおかしくしても、「お前には無理だ」と親に言われても、それでも勉強しました。
結局第一志望としていた大学には受からず、今の大学に来ました。
大学院に行って研究すると息巻いていた僕は、親を納得させる為に、進路的な幅を持たせる為に教職課程を取りました。
ここら辺からすでに”収束”は始まっていました。
教職課程を修了するには余分におおよそ30ほどの単位を納めなければなりません。
4年生で実習に行くことを考えれば、3年までにそれらを全て納めていることが理想、前提になります。
所属科の必修が多いのも合わせ、僕の時間割は高校生の頃のそれを上回る密度になりました。課題に追われ、すべての授業に出る余裕がなくなり、休んだり、後ろの方の席で別の授業の課題をやったり、自分の勉強をしてみたり。
自立を促されていたので夜勤でバイトもするようになりました。
明らかにキャパオーバーでした。僕は大学二年生で学んだ内容の記憶がほとんどありません。
残ったのは修められたことになっていた100に近い単位だけでした。
ぼくは選択肢を広げるつもりでかえって、大学生活の貴重なリソースをなる気もない教職の資格の為に割いてしまっていました。これは明らかな”収束”です。
大学三年、人間関係絡みで問題があったり、ようやくサークルで遊べるようになったことで羽を伸ばしていましたが、ついに”大学四年”がやってきてしまいました。
ここで、僕の人生の、平成と共に歩んできた僕の人生の”答え合わせ”が行われます。
選んでいたようで、受動的に選択させられていた自分のどうしようもなくくだらない人生の収束の結果が今夏、あるいは今年度末に訪れます。
僕は何を選ぶことができるのか。
あるいは何を捨てるのか、何を諦められないのか。
既に悲劇、あるいは第三者から見た哀れなバカの喜劇は目に見えていますが。
平成の終わりに、僕の人生は行き詰ってしまっている感覚に陥っています。
ぼくのPCの液晶には、先日頭がおかしくなってマジックで直接書き込んだ
”たすけて”の文字が白い画面に沈み込んでいます。
勉強してどうにか不安を振り払わなければなりません。
この行き止まり、令和で乗り越えられないだろうか。
デジタル化する生活
お久しぶりです。
最近、"道徳の切り売り"をテーマにブログを書こうとし4000文字ほど書いたところでパソコンが落ちて暫く立ち直れなかったり、コンビニバイトで夕方の仕事に慣れたのに夜勤に放り込まれたところ、あまりに業務内容が向いていなさ過ぎて相方に迷惑をかけているパスタですが、私は元気です。
今回のテーマはデジタル化です。
と言っても、おそらく皆さまが想像するスマホやらゲームやらのデジタル機器のそれではありません。原義の"デジタル"です。
数学の言葉で離散化、物理の言葉で量子化、あとは計数化とかそういうの意味のあれです。
英語でdigital。本来の本来の意味は"指"だそうです。指は折って数えられるからかな?
本題に戻りましょう。
デジタル化しているというのはどういう事でしょうか。
それにはまず我々の経験、生活といったものを一度定義しなおさなければならないでしょう。
我々の過ごしている時空間は連続的なものです。難しい数学的な意味の連続ではなく、直感的に連続であることはわかるかと思います。
一歩歩いたら別の空間に飛ぶわけでも、21時03分21秒と21時03分22秒の間の22秒はただの一度も途絶えることなく、流れ続けています。(実際のところ、空間に対しては飛び飛びのモデルがあったりするんですけど、人間の認知できるオーダーでのお話に限定します。)
我々の経験はそんな連続的な空間で繰り広げられる以上、その記憶も決して離散的なものではなく、連続的なものであります。
しかして、経験と記憶との間には齟齬が存在します。
皆さんはこういった経験はないでしょうか。
"衝撃的だった出来事に対しての記憶は残っているが、その前後の記憶があやふや担っている。"
例えば
「クリスマスの日に部活終わりに自宅に帰ってきたら家の目の前で幼馴染と誰か知らない男がクリスマスプレゼント交換をしていた事ばかり覚えていて、その日の練習試合で降りぬいたラケットが空を切る感覚を覚えていない」とか
「彼女の葬式で号泣しながら娘がどれだけいい子だったか、無念だったかを語る父親のスピーチばかり覚えていて、帰り道にぼーっと眺めた外の景色を覚えていない」とか。
記憶には、優先順位、濃度のようなものが存在すると言えそうです。
自分の中でその出来事がどれだけショックだったか、大切だったか、熱中したか等。
その優先度が高いものほど鮮明で、優先度が低いものの記憶はあいまいになっていきます。
ちょうど、正準分布のような形で記憶が減衰しているような気がします(別に統計を取ったわけではないけれど) 。
それでもやはり、"濃度"ですし、正準分布と宣った以上、連続的な経験です。まだ。
ここに、我々が最近になって手に入れた文明の利器二つが生きてきます。
一つは高速鉄道(交通インフラ)。もう一つはスマートフォンです。
一つ目。
交通インフラは、経験~経験の間隔を狭めます。我々は移動中にも、何かを経験するものですが、交通インフラは我々の経験を画一化して、その中での経験を希薄にします。
たとえそれが、どこに向かうものであっても、その中の風景は代り映えがなく、その座り心地に変化はさほどなく、無機的な車内アナウンスはオタクでもない限り大した価値を持ちません。
昔はそれほどでもありませんでしたが、インフラは拡大、高速化を繰り返し、その中の時間がどんどんと短くなります。
一つの経験からもう一つ経験までの経験が短く、無価値に切り捨てられていきます。
少しずつ、経験の波高が方形に整えられていきます。
二つ目。
スマートフォンはどこでも、どこからでも、インターネット上のあらゆるサービスに接続することのできる端末です。( 僕はアズールレーンに夢中です)
どこでも同じゲームを、どこでも同じSNSを、どこでも同じ友人とチャットを、どこでも同じ仲間と仕事を、どこでも本棚と同じ本を。
皆さんは、今日電車やバスの中でスマートフォンを開いたとき、隣にいたおじさんが組んでいた腕のどちらが上だったかを覚えていますか?僕は覚えていません。
皆さんは、ゲームをやっている最中に、降りて行った少年の顔を覚えていますか?僕は覚えていません。
皆さんは、スマホで本を読んでいる間に通り過ぎて行った景色を覚えていますか?僕は覚えていません。
皆さんは、SNSでくだらないことをつぶやいている間に、向いに居たJKの制服のしわの数を覚えていますか?ちなみにカーディガンに12本でした。(
覚えていませんね、大抵は。
この二つによって、デジタルな機器達によって、我々の経験から経験までの情報はほぼ失われ、”デジタル”な記憶が残ります。
我々の生活は、連続だったはずなのに、"デジタル化"しているのです。
これに何か文句があるわけではありません。どこぞの教科書か何かに出てきたような、『旅の経験は行く間の経験を大切に~』みたいなお話でもありません。
しかし、こんな生活を繰り返していると、ふと気が付くと家に居たり、ふと気が付くと職場やバイト先、学校にいて、毎日同じようなことをするループに陥っているような錯覚に陥ることがままあるかと思います。
そもそも、我々自身が、我々の使っている(実際には使わされているのかもしれませんが)デジタル機器によって、自分自身の経験をデジタルにされているという自覚を持っていないと、この感覚に気付いたときに何もかも嫌になるかもしれません。
だから、そもそも離散化されているんだから、しょうがないと割り切って、無駄な繰り返ししているような気分になったら、少し外を、連続的経験を求め眺めて、生活の変化を感じ取るといいかもしれません。
風景でも、本でも、広告でも、JKのカーディガンのしわの数でも、何か悪い思考から抜け出すためのヒントになるかもしれません。
私は一体何様ですかね、やってることはただJK凝視してる変態なんですけど。
じゃあ夜勤行ってきますね。
普通の人生
おはようございます。最近コンビニバイトを始めて社会復帰トレーニング中の私です。
今日はいわゆる”普通の人生”として想像されるものと、それを選ぶことについて考察しようかなと思います。
要するにいつもの垂れ流しなので、右から左に流しちゃってください。
普通の人生ってどんなものでしょうか?そもそも普通とは何なのか。
とりあえず辞書で引いてみましょう
特に変わっていないこと。ごくありふれたものであること。それがあたりまえであること。また、そのさま。
たいてい。通常。一般に
まぁ想像通りの意味ですね。しかして、日本で通常用いられる”普通”にはこれ以上に
”世間の中流”であるという意味があるように思われます。
あとは”普通に美味しい”、”普通にかわいい”等の副詞として用いると、”想定内で(肯定的表現)”といった意味を持っています(推測ですが)。
そうすると、”普通の人生”として想像されるものとしては、それが真に日本人の平均的生活でなかったとしても、
「偏差値50~60の普通科の大学を出て、大手でないにしろそこそこの企業にサラリーマンとして生活し、嫁(女性なら旦那)を貰い、年収600万、共働きなら嫁の分と合わせて1500万以上の年間収入が存在する家庭で子供を持って、子供に同じ人生を歩ませる余裕を持ち、退職後子供に見守られて死ぬ」
あたりでしょうか。
はい、どう考えても勝ち組の人生ですが、一般に想像される生活、誰もが普通として一度は思い浮かべたことがある人生はこれです。
これを歩ませるために親たちは、自分がこの普通に人生じゃないにもかかわらず、必死に教育費を捻出したり、学資保険に入れたりしてくれるわけです。
しかし、先ほど言った”普通の人生”を歩むためには実際のところ、親の協力はもちろんのこと、本人の努力もある程度必要になって来ます。
何となくで普通の大学に一発で受かることはありませんし、実際に偏差値○○の大学に入る人間はそれよりも+10位の大学を目指して頑張った人間が半分を占めてたりするわけです。
要するに、最初の関門の段階で結構な努力、お金が必要になるわけです。
ここから就職、結婚、子供…と”普通”のハードルをクリアし続けるにはなかなかの努力が必要なわけです。
努力をするには、やはり覚悟が必要になるわけです。
”普通の人生”を歩むという確固たる意志が必要になります。
覚悟をを持って努力をするということは、言うなれば選択です。人生における他の選択肢をほぼ完全に切ることになります。
子供のころに抱えた夢と、親や世間から迫られる普通の選択との間にはかなり大きなギャップが存在しますね。
例えばミュージシャンになりたい位だったら、大学に行ってからでも結構何とかなったりしますが、やっぱりずーーっと演奏してきた人たちとは技術の点で大きな差があったりします。
大学に入ってから研究者まで行きたいと思う人間は、就職活動の一歩手前のところで足並みをそろえずに勉強、研究をし続ける必要があるので、一回これを選ぶとほぼ確実に”普通の人生”からは踏み外すことになります。
なんとなくなんとなくで生きるには、普通の人生って難しいなあと、思うわけです。
ぼくにはまだ、普通の人生を歩む覚悟が出来ていませんね。
かといって、夢をかなえる覚悟があるわけでも、ありませんが。
勉強が好きなのか、勉強をしている自分が好きなのか?
今回の話は、ずっと考えて来たことです。ようやくまとまったので書きます。
僕が嫌いな言葉として「学力で殴る」という表現があります。
偏差値で殴るとか、得意科目で殴るとかの受験産業の流れを受けた表現です。
元となったこれらの言葉については、あまり嫌悪感はわきません、むしろすっきりと自分の主張を示していて良いと思いさえします。
まぁ僕は偏差値で殴られる側ですがね。
ではなぜ学力で殴るという表現が嫌いなのか。それはひとえにタイトルの疑問が存在します。
大体、学力で殴るとかのたまう人間の大多数は数物系の人間です。人文系の人間はそういう勘違いはせずに、大体資格で殴ってきます(怖い)。
数学、物理なんて言うのは元をたどれば貴族の娯楽です。それ以前は、智を愛する哲学から生じたものです。
”より早く、何らかの成果を得る”といった研究の世界は競争かもしれないけれど、これらの数物の世界は競争というよりかは世界に対する興味関心、何かを知ることに対する欲求、楽しさから数物の世界に”入ってしまった”人間がやることだと思います。
勉強が、数学が、物理が好きな人間が色々考えて、中々答えの出ない疑問に悩んで勉強を重ねる事で今までの科学は積み上げられてきているのです、
これらを積み重ねてきた人間に対して憧れを抱くことはあるでしょう。その強烈な生きざまに心を動かされることがあるでしょう。
コレに倣って何かを学ぶ人間がいるでしょう。それは悪い事ではありません。
しかし、ココで矛盾した生き物が発生します。勉強が好きなわけではないのに、勉強を好きだと思い込んで、憧れの人間のまねごとをして楽しむ奴。
”勉強をしている自分が好きな人間”です。
勉強をして周りの人間より優位にありたいとかではなく、勉強をしている自分に酔っている。
「モテモテのサッカー部に憧れて、運動が好きでも得意ってわけでもないのにサッカーの練習をし出す奴」
「女の子にキャーキャー言われたいが為に好きでもない音楽を聞きかじり、ギターを練習してみる奴」
こういう連中とあんまり変わらないどころか、より醜いです。
そして、自分に酔っているので勉強していない、物理や数学を学んでいない人間を見下し始める。自分よりモノを知らない人間を徹底的に見下し始める。
「フーリエ展開できない奴は理系じゃない」
とか
「量子力学も知らない癖に」
とか言い出す連中が発生するのは大概こういう原理です。
僕が物理を勉強するのが嫌になったのも、というか物理の研究を仕事にしようとするのをやめようと思ったのは、物理を勉強している連中にはこういう連中が多く存在するからです。この人は大丈夫そうかな?とか思うと突然他人にマウンティングしてたりするので油断なりません。こんな連中と一緒に勉強なんぞしてたら身が持たない上に不愉快すぎて全身に蕁麻疹が出ます。
何かを学ぶこと自体は自分の存在を強化するものでも、他人を貶めるための道具でもないでしょうに。
タイトルの疑問は、中学生時代の同級生が僕に言った言葉でした。
僕は当時、小学生時代全く克服できなかった算数の問題群が数学の力を用いれば簡単に解けることに感動、心酔して数学にのめりこみました。
中二病と重なって、増長されて「○○の定理は可愛い!」とか言い出してました(痛い…)。それを見かねた同級生が「数学が好きなの?数学をしている自分が好きなの?」と言ってきたのです。僕はこの言葉にハッとして少し考えたのち
「両方かな。」
と答えました。
同級生が満足気に「それなら成功するんじゃないかな」と言ったのを覚えています。
まぁ成功することはなさそうですが、少なくとも、僕に数学が好きな心があることを確認できて彼はそういったのでしょう。
早めにこれを指摘されていたから、僕は増長仕切る前に気付くことが出来ましたが、多くのヒトが気づけていないように思えます。
僕も人のことを言えたものでもなく、物理をしている自分が好きなのか、物理が好きなのか、あるいは両方か、自信をもって断言できません。
断言できるまでは、院進も無しっすかね。なんせ自然哲学は
「貴族の遊び」
ですから。