パスタのゆで汁

掃き溜め 物理

デジタル化する生活

お久しぶりです。

最近、"道徳の切り売り"をテーマにブログを書こうとし4000文字ほど書いたところでパソコンが落ちて暫く立ち直れなかったり、コンビニバイトで夕方の仕事に慣れたのに夜勤に放り込まれたところ、あまりに業務内容が向いていなさ過ぎて相方に迷惑をかけているパスタですが、私は元気です。

 

今回のテーマはデジタル化です。

と言っても、おそらく皆さまが想像するスマホやらゲームやらのデジタル機器のそれではありません。原義の"デジタル"です。

数学の言葉で離散化、物理の言葉で量子化、あとは計数化とかそういうの意味のあれです。

英語でdigital。本来の本来の意味は"指"だそうです。指は折って数えられるからかな?

ejje.weblio.jp

 

本題に戻りましょう。

デジタル化しているというのはどういう事でしょうか。

それにはまず我々の経験、生活といったものを一度定義しなおさなければならないでしょう。

我々の過ごしている時空間は連続的なものです。難しい数学的な意味の連続ではなく、直感的に連続であることはわかるかと思います。

一歩歩いたら別の空間に飛ぶわけでも、21時03分21秒と21時03分22秒の間の22秒はただの一度も途絶えることなく、流れ続けています。(実際のところ、空間に対しては飛び飛びのモデルがあったりするんですけど、人間の認知できるオーダーでのお話に限定します。)

我々の経験はそんな連続的な空間で繰り広げられる以上、その記憶も決して離散的なものではなく、連続的なものであります。

しかして、経験と記憶との間には齟齬が存在します。

皆さんはこういった経験はないでしょうか。

"衝撃的だった出来事に対しての記憶は残っているが、その前後の記憶があやふや担っている。"

例えば

「クリスマスの日に部活終わりに自宅に帰ってきたら家の目の前で幼馴染と誰か知らない男がクリスマスプレゼント交換をしていた事ばかり覚えていて、その日の練習試合で降りぬいたラケットが空を切る感覚を覚えていない」とか

「彼女の葬式で号泣しながら娘がどれだけいい子だったか、無念だったかを語る父親のスピーチばかり覚えていて、帰り道にぼーっと眺めた外の景色を覚えていない」とか。

記憶には、優先順位、濃度のようなものが存在すると言えそうです。

自分の中でその出来事がどれだけショックだったか、大切だったか、熱中したか等。

その優先度が高いものほど鮮明で、優先度が低いものの記憶はあいまいになっていきます。

ちょうど、正準分布のような形で記憶が減衰しているような気がします(別に統計を取ったわけではないけれど) 。

それでもやはり、"濃度"ですし、正準分布と宣った以上、連続的な経験です。まだ。

 

ここに、我々が最近になって手に入れた文明の利器二つが生きてきます。

一つは高速鉄道(交通インフラ)。もう一つはスマートフォンです。

一つ目。

交通インフラは、経験~経験の間隔を狭めます。我々は移動中にも、何かを経験するものですが、交通インフラは我々の経験を画一化して、その中での経験を希薄にします。

たとえそれが、どこに向かうものであっても、その中の風景は代り映えがなく、その座り心地に変化はさほどなく、無機的な車内アナウンスはオタクでもない限り大した価値を持ちません。

昔はそれほどでもありませんでしたが、インフラは拡大、高速化を繰り返し、その中の時間がどんどんと短くなります。

一つの経験からもう一つ経験までの経験が短く、無価値に切り捨てられていきます。

少しずつ、経験の波高が方形に整えられていきます。

 

二つ目。

スマートフォンはどこでも、どこからでも、インターネット上のあらゆるサービスに接続することのできる端末です。( 僕はアズールレーンに夢中です)

どこでも同じゲームを、どこでも同じSNSを、どこでも同じ友人とチャットを、どこでも同じ仲間と仕事を、どこでも本棚と同じ本を。

皆さんは、今日電車やバスの中でスマートフォンを開いたとき、隣にいたおじさんが組んでいた腕のどちらが上だったかを覚えていますか?僕は覚えていません。

皆さんは、ゲームをやっている最中に、降りて行った少年の顔を覚えていますか?僕は覚えていません。

皆さんは、スマホで本を読んでいる間に通り過ぎて行った景色を覚えていますか?僕は覚えていません。

皆さんは、SNSでくだらないことをつぶやいている間に、向いに居たJKの制服のしわの数を覚えていますか?ちなみにカーディガンに12本でした。(

覚えていませんね、大抵は。

この二つによって、デジタルな機器達によって、我々の経験から経験までの情報はほぼ失われ、”デジタル”な記憶が残ります。

我々の生活は、連続だったはずなのに、"デジタル化"しているのです。

 

これに何か文句があるわけではありません。どこぞの教科書か何かに出てきたような、『旅の経験は行く間の経験を大切に~』みたいなお話でもありません。

しかし、こんな生活を繰り返していると、ふと気が付くと家に居たり、ふと気が付くと職場やバイト先、学校にいて、毎日同じようなことをするループに陥っているような錯覚に陥ることがままあるかと思います。

そもそも、我々自身が、我々の使っている(実際には使わされているのかもしれませんが)デジタル機器によって、自分自身の経験をデジタルにされているという自覚を持っていないと、この感覚に気付いたときに何もかも嫌になるかもしれません。

だから、そもそも離散化されているんだから、しょうがないと割り切って、無駄な繰り返ししているような気分になったら、少し外を、連続的経験を求め眺めて、生活の変化を感じ取るといいかもしれません。

風景でも、本でも、広告でも、JKのカーディガンのしわの数でも、何か悪い思考から抜け出すためのヒントになるかもしれません。

 

私は一体何様ですかね、やってることはただJK凝視してる変態なんですけど。

じゃあ夜勤行ってきますね。