パスタのゆで汁

掃き溜め 物理

勉強は泥臭くやるのが結局かっこいい

最近になって物理学の面白さを再認識したパスタです。皆さんこんばんは。

連投記事なのでこんばんはもクソもないですが。

 

物理の何が面白いのかについては、きっとこのブログで語ることはほとんどないでしょう。今回は勉強しててやらかしてしまったことについて話します。

 

物理だけではないですが、勉強において重要なことは自分の身に着けることです。

それはそうです。勉強とはそもそもそういう意味ですね。

dictionary.goo.ne.jp

ここから引用すると

  1.  1 問や技芸などを学ぶこと。
  2. 2 物事に精を出すこと。努力すること。
  3. 3 経験を積むこと。
  4. 4 商人が商品を値引きして安く売ること。

だそうです(思った通りで良かった。)

普通学問をやるときは1~3の意味を用いますが、最も重要なのは3です。

 

自分で経験し、再現できるようにならなければ、それは学んだことにはなりません。

それはそうですね。同じ単語でまいかいひっかかっていちいち辞書を引いてる人間が学習しているとはだれも思いません。

数学や物理においてもそれは同じで、ある原理を導出したり、ある照明を導くのにいちいち参考文献を用意しなければならないのであれば、その分野は学んだとは言えないでしょう。

そして僕がやらかした最大のミスは、これができることを確認しないままただただ”本を読み進めてしまった”事です。

僕は自分では読んでる本を理解しているつもりでしたし、暗算しながら、あっていることを確かめながらいろいろと本を読んでいました。

しかしB1の夏に自分が何たる失敗をしたかを思い知ります。僕は一学期の間、いろいろな本と並列して下の本を図書館で借りて読んでいました。

www.amazon.co.jp

おこがましいにもほどがありますね。このころの僕はちょうど、清水明氏の量子力学の本を読み(清水さんの本の指示内容に解析力学を未修の場合は流し読みで良いという箇所を除いて読み切っていました)、ゴールドスタインが長すぎて辟易していました。

元から数学で構造的に物理をまとめる姿が何となくかっこいいという物理学への抽象的過ぎる憧憬からアーノルド氏のこの本のタイトルに惹かれてずーっと読んでいました。

 

僕が最初にやらかしたと思ったのは夏休み中のある日、ちょうどこの本の71p辺りを読んでいた頃でした。

僕はそもそも線形代数をそこまでちゃんとやっている状況ではありませんでしたので、写像等の概念がまだまだ固まっていませんでした。ゆえにこの本に突如登場した

多様体”の概念がほとんど掴むことが出来ず、それに使われている計算や、照明も日本語による”何となくの理解”しかすることが出来ません。

それでもまだ線形代数をただ並行してやるだけでいいと思っていた僕は読み進めます。

ネーターの定理、ダランベールの原理、振動、剛体の処理等と読み進めていくうちにまた詰まります。剛体は特に計算が難しくて止まらざるを得ません。そこで初めて(比喩でなく僕はここで初めてこの本で手計算を試みました。)

 

解けない。まったく解けないのです。ここで失態に気付き、前に戻ります。どんどん戻ります。解るところまで戻ります。すると…

 

71pに戻ってきたのです。ちょうど計算という手法を手放して、事実だけを読み込もうとしていた頃の自分から、自分は何一つ学べていなかったのだという事に気付いて絶望したのを覚えています。(ちなみに71pに最初に突入したのはテスト終わった翌日だったので、8月前、戻ってきたのがお盆の終わりです。わーお!)

 

そこから自分は自分に絶望し、また物理自体の面白さも余り感じなくなってきていたので勉強しなくなっていました。

B2に入る前、最後に場位やっておこうと思い、ランダウの本を購入しました。名著と名高いアレです。

場の古典論―電気力学, 特殊および一般相対性理論 (ランダウ=リフシッツ理論物理学教程) | エリ・ランダウ, イェ・エム・リフシッツ, 恒藤 敏彦 |本 | 通販 | Amazon

これを読んでいるときの僕も、まだ学べていません。またあの”書かない”という勉強法を繰り返してしまいます。

結果として、テンソルの概念をつかむことが出来ず、maxwell方程式も覚えることもなく、ただただ普通にB2までやってきてしまうことになります(この本の内容を半分以上地力で計算できるようになったのは、B2になってから相対論の授業を受けてようやくという感じです。)

 

そして僕はいまだに先ほどの古典力学の本を読んでいるのですが、今日もまた、3時間近くただ本を読んでいるだけの時間を過ごしてしまいました。

試しに本を閉じて何を理解したかを確認してみると……空っぽでした。結局少しでもメモ書きに書いたところだけを理解していたにすぎませんでした。。

 

なぜここまでわかっていて紙に書かないのかと言えば、おそらく僕は無意識のうちに”読んでいる自分”に酔っていたのでしょう。難しい本なら面白いはずだ、評判のいい本なら正しいことを書いているはずだ、正しい事さえ書いてあればわかるはずだ。といった考えもありました。

こういった、高校生のころから何も変わらない学問を舐め切ったスタイルで一年を無駄に過ごした結果が今の僕なわけです。

何もない空虚な65㎏の箱。だまになったまま麺にしたクソまずいパスタ。あるいはそれ以下の価値しかない思考する肉塊になった僕は今日も、反省を生かすことなく時間を無駄にし、毎秒後悔しながら生きて(死んで)います。

 

どうかこれを読んだ人が、常に後悔をするだけの人生を過ごさなくなりますように。